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堕罪
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人類の堕罪
この純潔な状態は、男女共通の堕落によって終りを告げる。このことに関する物語-古い神話(神話とは、内なる決意が外なる行動によって客観化される物語である)1は、非常に深い意味をもっているので、人は絶えずその中に新しい神秘的な特色を見出している。男女はもろともに堕落する。彼らは両方とも、決意したことの実現に関与する。この事実の中にこそ、彼らの結合の運命的な深さが示されている。衝動は女の方からくる。
彼女の受けいれやすい心、近づきやすい性質こそ、誘惑への端緒として自らを蛇に差し出す弱点である。かくて彼女は、神に関する会話にまきこまれ、神の善を疑うように誤導される。彼女は自ら果実を眺め、その誘惑を感じ、これを取って食べ、夫に与え、夫もまたそれを食ぺる。アダムはエバによって堕落し、エバはアダムによって堕落する。彼らの共通の堕落は人類の堕落である。それは、神が人間を男と女に造り給うたからである。
もし、人が最初に誘われたものとしてすべての罪をエバの上に負わせようとするならば、そしてその犠牲においてアダムの重荷を取りのけようとするならば、彼女ひとりを最初の決心の担い手とすることになるであろう。彼らはともに堕落し.今やふたりともに恥辱の中に立つ。「自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」。この時から、彼らの性的な共存は罪によって汚される。
この人間の最も熱烈な強い衝動は、人生にたいする利己的な意志の表現となる。ここで特に人が自らにたより、他に対して自己を主張し、自らのために他に要求することを欲するということが明らかになる。人は神から離れている。もはや神に錨を降ろしていないから、彼の存在はそれを支えていたところの根拠を失った。彼は自らに頼るが、自らの中に憩うことはできない。なんとなれば、最後的に自分を処理しないからである。
この神から離れた人間は、もはや他の人間に自由に所属することができず、他人を自分自身の目的にたいする手段と堕せしめずにはいられないb爾来、罪は人生のあらゆる領域、殊に性生活においてその本領を発揮している。性は罪ではない。しかし罪がないならば肉欲としての性欲はない。
「男性たり女性たる男女が、相互いに所属し合うことを欲せず、自己自らに所属することを求めるために、彼らの性生活は恥辱となり、蓋恥は逆説的に徳となる」(カール・バルト)。彼らは恥辱において一つであったと同じように、また神からの逃避においても一つであった。
アダムとその妻は、主なる神の御前を避けて、園の木の間に身を隠す。ふたりは自ら答えるべく神に呼ばれ、神の呪いに打たれる。アダムには土が彼のために認われるという言葉がくる。土の上におかれた祝福1「土を従わせよ」は、かくて誼いと変った。神の誼いはまた性的な性質をもった誼いとして女性を打つ。彼女は、男子とは全く異なった懐妊の労をその天性の中に保つ。
「あなたは苦しんで子を産む。それでもなおあなたは夫を慕う」。エバは人生保持の器、アダムが彼女を呼んだように、すべて生けるものの母となった。神は、今や彼の誼いの下にある人類を、救いを目標として保持し給う。この救いこそ、彼の定め給うたところのものであるゆえに、女性は生命の担い手であるとともに、約束の担い手ともなっている。
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