男女の関係
男女の関係

男女の関係

男女の関係が最初の意義を失ったので、彼ら相互の関係の正しい秩序の問題は、歴史の根本問題の一つとなった。人生のこの領域は、一方で富と充足を意味していると同時に」他方ではそ九は悲しみと恥との源である。そtには、常に一方が他方を彼自身の生命達成のための対象、自らのための手段に堕せしめる危険がつきまとっている。

そして、それは特に女性に影響を及ぼす。女性は性関係において依存的立場にあるからである。淫売婦への堕落ほど、被造物の堕落を如実に表わすものばない。この点で、旧約聖書の中には、女性の生活をおおう深いかげが横たわっている。イスラエル人は、律法や社会生活の上で他の近東諸国と結ばれ、その結婚の法律も彼らと同じであった。

族長時代に一夫多妻が存在していたことは明白であり、いろいろな状況からこれを立証することがでぎる。アダム、-そサク、ヤコブは、正妻の外に第二の妻を持っていた。ヤコブはラケルとレアのために仕え、かくして彼らをその所有として獲得した。シナイ山の十誠中第七誠の第一の例は、われわれがルターの教理問答から読みならされているような意味を持っているのでなく、他人の財産(妻もその一部をなしている)の侵略を禁じているのである。妻は、他の財産といっしょに、所有物の一片として扱われている。実際、申命記の律法の第二版では、妻はその枠内での第一位を与えられている。

後になって、預言者的洞察の影響下におかれたラピが一夫一婦制を彼らの法律とした時でも、妻はへつやはり夫の財産、彼の自由にできるものとなっていた。これは離婚の法律において最も明らかである。実際、それ自身の利益のために律法を変形しないということが、旧新約の神の秩序の特色である。神の黙示は、人をば彼が従わねばならぬ永遠なる神の意志の前におき、かくして彼を周囲との新たな関係に引き出してくる。それは主従夫婦間の新しい関係に最も深い基礎を与えるが、しかも社会構成はそのまま継続して存在することを許すのである。

時満つるに及び、結婚の秩序すなわち夫婦の関係は、福音によって、急転直下変容した。キリストは律法の新たな解釈を与えるとともに、また第七誠の真の意味をも明らかにし給うた。数個の事実が結合して両性の関係に新しい形を与えている。その革命的要素の一つは、女性の新しい立場であを。福音の立場からは、女性は文字通り一個の人間、神から呼びかけられ、自分自身の答1これはほかならぬ彼女だけしか答えられぬ答1を永遠者に与えなくてはならぬ一個の人間として見られる。

われわれは、イエスが女性を彼の友として呼び入れ給うたこと、男性の信仰を尋ね求め給うたと同様に、女性の信仰を求め給うたことを知っている。そしてそのことは、われわれに言い表わすこともできないほど大きな意義の変化を示す。かく人間としての身分にたかめられた女性は、もはや性的な関係における男性のための対象物、単なる性的動物、また本能的存在に堕することはあり得ないであろう。イエスは男性から、欲するままにその妻を離縁する権利を取り上げることによって、この結婚観の変容を意識的に遂行し給うた。

「自分の妻を出す者は姦淫を行うのである」。彼らを結ぶ絆は神の制度で縛られている。ゆえに、みだりに一方から離すことはできない。結婚生活にはいる者はだれでも、自分の思い のままにそこから離脱することのできない義務を背負うのである。イエスのこの見解がいかに新しいものであるかは、弟子たちに与えたその効果を見れば最も明らかにわかる。

「弟子たちは言った、『もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです』。彼らは、それまでは全然結婚をその深い意味において理解せず、ただ人,間的観点からのみこれを見ていた。ゆえに彼らは、この限定によって耐えがたい栓桔が人間に課せられることを恐れた。しかるにイエスにとっては、結婚は神の御前におけるふたりの人間の相互の結合であり、そごにおいてはどちらも他方のためのものではありえず、おのおのが十全なる人間、神の前に立つ人間でなくてはならない。